親や血縁者、誰かを許せなくて苦しんでいる人へ

誰かを恨む気持ち、
恨んでしまうことへの罪悪感。
そんな自分を許すことの難しさ。

そんなものを抱える人たちと共に少しでも救われますようにと願いつつ、
私が実践してみた「許しのアファメーション」のフィードバックを。

目次 ^^

●許しのアファメーション 例文
●共依存の家族と距離を置く
●宇宙いわく、原因不明の疾患があるなら、誰かを「許す」ことが必要
●許しのアファメーション、1ヵ月目のフィードバック

↓↓

<許しのアファメーション>

例文:↓↓

私は○○(許せない人の名前。○○さん、でも。複数いる場合も)を
完全に許します。
そして、彼ら彼女らを憎んだ私自身のことも許します。

無意識の中で憎んでしまっている人達のことも、
完全に許します。
すべてを無条件で許します。

私の中にある愛が、
すべてを許すよう、はたらいてくれます。

意識できることも、
無意識や意識外のことにおいても、
私にかかわるすべての出来事へ、
愛と許しがもたらされます。

私と私を取り巻く世界が、
心身の健康と幸福で満たされていることに、
心から感謝します。

↑↑

これを、紙に書いたものを読み上げてもいいし、
読み上げたものをレコーダーに録音して聞いてもいい。

私は、レコーダーに入れ、朝晩、10回くらい繰り返し聴くことを日課にした。
昼間も余裕があるときは家事をしながら聴いたり、
車の移動中に聴いたりもしていた。

はじめは抵抗を感じることもあったが、
次第にBGM的になってきて、抵抗感はなくなってくる。

<共依存の家族と距離を置く>

(誰が悪いなどの善悪を言いたいのではなく、
共依存という状況をただありのままに観察して書いてます)

私の場合は、
今も実家に共依存している妹との諍いがきっかけで、
実家に近寄ることすらできなくなり、
もう3年くらい母とも連絡を取らず、会っていなかった。(父は先に他界)

小学校に入った息子の成長も見せに行くことができず、
当時は、妹の理不尽さや、それを黙認しているだけの母に憤ったが、、

3年ほど経った今は、

物理的に距離を置くことは、
自分を内観したり癒したりするのにかなり効果的だ
と分かった。

(人によっては、生活を別にできない事情があると難しいかもしれない。
でも多少ムリをしてでも、物理的に距離を置き、自立を目指すことは、それだけでも「許し」や「癒し」にグンと近づく。
離れる過程で、裏切り者扱いされようが、どんなに悪く言われようが、どうか気にしないで。)


ちなみに、

「許す」ことは、自分がされたことを「無かったことにする」のとは違う。

「仲良くする(接触する)」のとも違う。

また、相手の望み通りになるよう「へつらう」ことでもない。


(共依存的な相手の場合、しっかりと距離をとっていないと、
相手が自分に罪悪感を抱かせて来たり「へつらう」ように
仕向けてくることもあるので注意が必要だ。)


では、なぜ「許す」のか?


<宇宙いわく、原因不明の疾患があるなら、誰かを「許す」ことが必要>

それは、許すことで、
負の感情に囚われた心を洗い、
許せない感情が引き寄せるあらゆる心身の不調を癒すためだ。

相手のために許すのではなく、自分のために許す。

(それが回りまわって相手の次元も上げることに繋がる)

自分の人生を自分の手でクリエイトするためには、
許せない次元に居てはいけない。

「許す」ことには、
「言い訳を手放す」、ということも含まれる。

本来、

「誰かのせいで何かをできない」という現象も、
宇宙の方程式にはあり得ない。


すべては自分が蒔いた種。
思考は現実化する。
望むことが現実化する。
それだけだ。

旦那のせいで…
親のせいで…
病気のせいで…
環境のせいで…

誰かや何かのせいではなく、
それらのせいにして依存から抜け出そうとしない自分を内観しないといけない。


とにかく、

相手がどうであれ、

「許し、手放す」ことを、心の中で、自己完結すること。

相手を変えることが目的ではなく、
相手がどうであれ、自分の心の平安を保つことが目的。

その精神レベルが進むごとに、自ずと、
次にとるべき行動が分かり
自分の道が1歩、また1歩と、開けてくる。

許すことは、
自分の夢や生きる使命、健康や幸福、
すべてに繋がっていることを体感するはずだ。


<許しのアファメーション、1ヵ月目のフィードバック>

私は、母への感情はもう随分と落ち着いてきてはいたものの、
自分が完全に許せているのかどうか試してみたいこともあり、
このアファメーションを始めた。

やり始めて1ヵ月くらいが過ぎた先日、

ある事情で、実家に置いてきたスーツケースが必要になった。
取りに行くくらいなら、買おうかとも考えた。
(以前ならそうしていた)
そんな中、さらに、
現在執筆中のストーリーに関する資料が、実家にあることを思い出した。
こればっかりは他では賄えない。

1日悩んだ末、
母に会うだけなら(妹に会う心づもりはないが)大丈夫な気がした。
よし、帰ろう。
そう決めたら、不思議と気がラクになって、
相手(母)がどうあろうと、
自分は自分らしく居られる確信が降ってきた

※この確信が得られない場合は、会わないほうがいいこともある。
そもそも、会ってどうこうすることが目的ではなく「許し」を自己完結できればOK。
逆に、会っても大丈夫、という確信が得られたということは、
母の方にも、集合無意識を通して何かしらの浄化や感情の解放が伝わったのだと思う。
(母に自覚があるなしに関わらず)
親子は特に以心伝心しやすい。

すっかり小学生の顔になった息子も連れて、
私は実家へ向かった。

久々に会った、母という人間に、
懐かしさと同時に、
今日初めて会うような新しさも感じた。

以前と違い、
母なりの想いや正直な感情も表現してきた。
(以前は、あまり自分の感情を露わにすることはしなかった)
そのことはとても新鮮だった。

そんな母の気持ちを聴けた私は安堵し、
かつ、感情は落ち着いていた。

あらゆる「しこり」が解けていった。

母への愛おしさや感謝、
そこから派生する自分の命に対する感謝。

そういうものを久々に素直に感じた。

母親の愛を感じることで、
だれかの承認を得るための渇望は潤う。
(承認欲は、満たされなかった母親からの承認欲求の投影であることが多い)

誰かに褒められる自分ではなく、
私が1番「納得」できる私であるために、命を使いたい、
そう強く思った。

それを体現している姿を、
母や、他界している父にも見せていきたい、とも。

この日を境に、
また新たなスタートラインに立った気がする。



以上が「許しのアファメーション」実践1ヵ月後のフィードバック。

人それぞれ、
癒された実感を得るのに、かかる時間や状態は様々だとは思うが…
とにかく、信じて委ねる。
やるべきことはそれだけ。

少しでも、お役にたてればいいのだが。
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今日も、
ご縁のあるすべての人がゴキゲンでありますように( ^ω^ )