どうも。そらまいです。


7月2日って、
1年の折り返し地点だそうですね。

ていうか、
人生80年だとしたら
死ぬまでの折り返し地点を過ぎてしまってる。。

もう時間がない。
恥とか人の目とか気にしてる場合ではない。

にもかかわらず、

何かを始めるときに
学歴の低さを気にしてしまう自分がいる。

私は京都女子大学の短大出身。
その、通称「京女(キョウジョ)」は、
数年前に短大がなくなって4年制大学だけになってしまった。

これによってますます
自分のアカデミックな基盤みたいなものが緩んだ気がする。

その短大すら、ろくに通わなかったせいか、
短大時代の友人は1人もいない。
だから他の京女短大出身の人達が、
短大なくなったことをどう思ってるのかは分からないけど。

高卒の人からしたら
「なんちゅう贅沢な!」という話だとは思う。

高卒や中卒の人で、頭のいい人は多い。
仕事ができて稼げる人もいっぱいいる。
人間力の高い人も、いーっぱいいる。
分かっている。分かってはいるんだけども。

私はいまだに、

京女の大学に編入して
4大卒の切符を手に入れてから勝負かけようか?
なんて、時々本気で考えてしまうのである。。

こういうのが本物のアホなのだ。
その時間とカネがあるなら、
今すぐやれ、って話で。

分かってはいるんだけども、
世間の風が怖くて仕方ない。

じゃあ世間って誰よ?
世間というものの正体なんて本当はないのにさ。


じつは世間の目って、親の目なんだよな。

心理的に、世間の目 = 親の目


厳密にいうと私の親は全く学歴主義ではない。
じゃあなぜ学歴が気になるのか?

それは、
このままの私じゃダメで、
ちゃんとしてなきゃダメで、
教室で浮いてたらダメで、
沈み過ぎててもダメで、

子どもというのは「自然」と同じで
コントロール不可な存在であるにもかかわらず
「子どもである」という尊厳を奪い取られ、

自分らしくいるとは何かを忘れるくらい、
矯正させられ、
しつけという名のもとに
とにかく怒られて、
親の不機嫌をぶつけられて、
家族の不穏な穴を塞ぐために親の顔色をみて
良い子をやらざるを得なかった、子ども時代のおもりを、
今も引きずっているから
なのである。

「このままの私じゃ、世間様は許してくれない」

という呪い。


問題はそこ。


本当の問題は、
学歴肩書き云々じゃなくて、

何をやるにも人の目が気になって、
せっかく持っている自分の「良さ」すら出せないまま
死んでいくことへの苦しさ。

この苦しさを、学歴は埋めてはくれない。



人生に
「これをやらねばいけない」
というものは何もない。



なのに、

何かをやらなければいけない、という焦燥感と、
それをやるにはこんな自分じゃダメだという、

訳の分からない自分イジメのループを
延々と繰り返してしまうことが問題。



親も人間なので完璧じゃないし、
多かれ少なかれ毒を持っている。

この毒を受けてきたってことに、
見て見ぬふりをするより、
気づくことは、
自分をちょっと身軽にする。

自分の素質というのは、
49%が親と環境
51%が自分次第


なので、結果、
人生は自分次第で創れるしね。





結論。

学歴はなくていい。
でも、
生きる力と人間力のためには
幸福な感受性、自己肯定感、自己受容は必須。


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読んでくれてありがとう
今日も
ご縁のあるすべての人がゴキゲンでありますように(*^ω^*)